

シンザンの誕生
北海道浦河町の松橋吉松氏が営む松橋牧場で1961年4月2日父ヒンドスタン、母ハヤノボリの子として生まれた。
シンザンが生まれた時は、牝馬かと思うほど小さな馬であり、血統名を松風と付けられた。
生後1ケ月で調教師武田文吾にその素質を見いだされ、秋に育成のため荻伏牧場に移されました。
シンザンの現役時代
武田厩舎に入厩したシンザンですが、当時の武田厩舎は70頭近く預かっておりシンザンは入厩当初、武田の評価は高くなくそれほどの期待はされていなかった。
武田厩舎の期待の星はオンワードセカンド【母は二冠馬(桜花賞・オークス)ミスオンワード】でした。
シンザンへの期待は、武田厩舎ないでは、高くはありませんでした。
武田はシンザンが4連勝をしたあとも、オンワードセカンドのほうが上だという気持ちは変わらず、スプリングステークス戦の前に栗田勝騎手が、シンザンへの騎乗を希望したが止めるように言い続けていた。
3月にスプリンターズステークスにシンザンが優勝すると武田も改めて,シンザンに詫びたと言われています。
シンザン3歳(1963年)
最初からシンザンをただものではないと認めていたのは栗田勝騎手(武田調教師の娘婿)シンザンのほとんどのレースに騎乗することになる。
3歳新馬戦より3連勝。
シンザン4歳(1964年)
1月にオープン戦に優勝し4連勝、しかしここまでのレースは一線級の馬との競争を回避したものであったため、皐月賞の前に東京競馬場で開催されるスプリングステークスにシンザンの力を見極めるために出走させることにした。
シンザンの右の後脚の爪から出血しているのを発見、原因は後脚と前脚の接触にあり武田が対策を考えた。
試行錯誤の末、後脚にスリッパのようなカバーを装着して後脚を守り、前脚の蹄鉄にはシンザン鉄と呼ばれる強度を増した蹄鉄を使用することで解決した。
この蹄鉄は通常の2倍の重量があり、シンザンが調教時は走らなかったが、この蹄鉄のおかげで反対に足腰が鍛えられたといわれています。
競走時は通常の蹄鉄を使用していました。
スプリングステークスでは一線級の馬が出走し、シンザンの人気は出走14頭中6番人気でしたが、見事優勝します。
皐月賞では単勝1番人気で、2着馬のアスカに3/4馬身差で優勝し6連勝でまず1冠目を取りました。
東京優駿(日本ダービー)の前にオープン競走に出走させることになりましたが、ここで初の2着に敗れてしまった。
東京優駿では一番人気になり最後の直線でウメノチカラに交わされましたが、再び差し返し1馬身1/4で二冠目を手に入れました。
次の目標、菊花賞へ向け避暑に北海道へ行くこともなく京都競馬場で調整することになりました。
しかしこの年の京都は40年ぶりの猛暑で、シンザンは7月に重度の夏負けにかかってしまった。
扇風機や氷柱をを吊るすなどの対策をしようやく8月下旬に体温は戻りましたが、調子は上がらず10月まで調教はできず、その後もシンザンの調子は不調で、オープン戦・京都杯にも2着と敗れてしまいました。
11月に入りシンザンの体調は上向きましたが、前2レースでの敗北によりファンの体調に関する疑念から、ウメノチカラに1番人気を譲り2番人気でした。
レースはカネケヤキの大逃げ(20馬身)で大差がつきましたが、最後の直線で一気に追い上げ2着に2馬身1/2の差をつけて優勝しました。
戦後初23年ぶりセントライト以来日本競馬史上2頭目の三冠馬になりました。
三冠を達成した後、シンザンの疲労もあり翌年の5月まで休養することになります。
シンザン5歳(1965年)
三冠を成し遂げたシンザンは阪神競馬場でのオープン戦、2戦とも勝ち続く宝塚記念でも2着のパリモスニセイに1/2馬身差をつけて勝利しています。
秋にオープン戦・目黒記念(秋)にも勝利し天皇賞(秋)に4冠をかけて挑戦することになります。
天皇賞(秋)では大逃げをしたミハルカス最後の直線で抜き先頭に立ち2着のハクズイコウに2馬身差をつけて優勝し4冠を果たします。
天皇賞(秋)後のオープン戦に4度目の負けを味わいましたが、引退レースとなる有馬記念に向かいます。
有馬記念では、騎乗予定の栗田勝がオープン戦で武田博が騎乗したシンザンが関西の無名のクリディに敗れたことにショックを受け、酒を飲み急性アルコール中毒で倒れ病院に運び込まれた。
激怒した武田調教師は、栗田を降板させ松本善登に騎乗させることにした。
第10回有馬記念でシンザンは圧倒的1番人気で、人気投票も1位でした。
レース展開は最後の第4コーナーでミハルカスに並びかけたが、ミハルカスに騎乗していた加賀武見騎手がシンザンに馬場の悪いインを走らせるために外へ進路をとった。
しかしシンザンはミハルカスのさらに外に進路をとりミハルカスに1馬身3/4差をつけて優勝し見事5冠を成し遂げました。
シンザン現役引退後
北海道浦河郡浦河町の谷川牧場で種牡馬となったシンザンは、内国産種牡馬の需要が少ない時代(当時海外からの牡種馬の需要が多かった)谷川牧場は、シンザンの血統を後世に伝えることが重要と考え、種付け料を低価格に設定した。
代表的産駒 ミナガワマンナ、ミホシンザン
シンザンの晩年
種牡馬を引退したシンザンは、その後も引き続き谷川牧場で余生をおくっていました。
1996年7月13日に老衰により死にました。
35歳3ケ月というサラブレッドの長寿記録を樹立しました。
シンザンの葬儀は盛大に行われ、土葬にされ墓は谷川牧場内にあります。
シンザンの競走成績
年月日 | 場 | 競走名 | オッズ | 着順 | 距離 | タイム | 着差 | 騎手 | |
1963.11.13 | 京都 | 3歳新馬 | 1.4 | 1着 | 1200(良) | 01:13.9 | 4馬身 | 栗田勝 | |
1963.11.30 | 阪神 | オープン | 2.2 | 1着 | 1400(稍) | 01:25.7 | 2 1/2 | 栗田勝 | |
1963.12.14 | 阪神 | 3歳中距離特別 | 1.9 | 1着 | 1600(稍) | 01:40.0 | 4馬身 | 栗田勝 | |
1964. 1. 4 | 京都 | オープン | 1.0 | 1着 | 1600(良) | 01:42.3 | 2馬身 | 栗田勝 | |
1964.3.29 | 東京 | スプリングS | 10.5 | 1着 | 1800(良) | 01:51.3 | 1/2身 | 栗田勝 | |
1964.4.19 | 東京 | 皐月賞 | 2.7 | 1着 | 2000(良) | 02:04.1 | 3/4身 | 栗田勝 | |
1964.5.16 | 東京 | オープン | 1.3 | 2着 | 1800(良) | 01:50.8 | 0.1秒 | 栗田勝 | |
1964.5.31 | 東京 | 東京優駿 | 2.1 | 1着 | 2400(良) | 02:28.8 | 1 1/4 | 栗田勝 | |
1964.10.1 | 阪神 | オープン | 1.2 | 2着 | 1800(良) | 01:51.6 | 0.1秒 | 栗田勝 | |
1964.11. 1 | 京都 | 京都杯 | 2.5 | 2着 | 1800(良) | 01:52.1 | 0.2秒 | 栗田勝 | |
1964.11.15 | 京都 | 菊花賞 | 2.4 | 1着 | 3000(稍) | 03:13.8 | 2 1/2 | 栗田勝 | |
1965. 5.29 | 阪神 | オープン | 1.9 | 1着 | 1600(稍) | 01:37.7 | 4馬身 | 武田博 | |
1965.6.13 | 阪神 | オープン | 1.0 | 1着 | 1850(良) | 01:53.7 | 1 1/2 | 武田博 | |
1965.6.27 | 阪神 | 宝塚記念 | 1.3 | 1着 | 2000(不) | 02:06.3 | 1/2身 | 栗田勝 | |
1965.10. 2 | 阪神 | オープン | 1.8 | 1着 | 1850(良) | 01:54.0 | アタマ | 武田博 | |
1965.11. 3 | 東京 | 目黒記念(秋) | 2.4 | 1着 | 2500(稍) | 02:42.2 | 1/2身 | 栗田勝 | |
1965.11.23 | 東京 | 天皇賞(秋) | 1.0 | 1着 | 3200(良) | 03:22.7 | 2馬身 | 栗田勝 | |
1965.12.18 | 中山 | オープン | 1.0 | 2着 | 2000(良) | 02:05.5 | 0.2秒 | 武田博 | |
1965.12.26 | 中山 | 有馬記念 | 1.1 | 1着 | 2600(稍) | 02:47.2 | 1 3/4 | 松本善登 |